[まんがメモ] 茄子 アンダルシアの夏
天然と計算の狭間(?)の人、黒田硫黄の漫画『茄子』の一話であるアンダルシアの夏の映画化。自転車レースの話。漫画アンダルシアの夏は、黒田の自転車への愛からであろうが、一話(前後編)のそう長くないページの中に、マニアにんまりの自転車レースうんちく、臨場感あるレース、主人公ペペの失恋や故郷から出て行きたいなどの多くのエピソード、ペペの兄アンヘルのエピソード、元ペペの恋人で現アンヘルの妻カルメン、etc...と非常に多くのエピソードを織り込み、でも設定漫画に陥っていないという恐ろしい漫画でありました。ああ恐ろしい。
しかしそれらのエピソードには半歩踏み込んだくらいしか展開しておらず、そこが魅力でもあったが、明快という観点からはやや遠いところにあったのも確かだった。漫画でも小説でも作るときにネックになるのは、エピソード(とどこが面白いか)の説明をどの程度文字にするか、という点であると思う。全てを箇条書きにして明確に整理すればそれは設定集となり、明確にせず一部のみを不確かに感情的に書けば物語になるとも言えるのではないか。(従って、極端なことを言えば、究極の物語は2、3の単語で終わってしまい、作者の中にしかないことになる。しかしエンターテイメントとするには第三者に楽しんでもらう必要があり、言うこと、言わないこと、言ってわからせること、言わないで分からせることのバランスが先ず大事になってくる。もちろんエンターテイメントとするには演出等がそれ以上のウエイトを占めることが多い。漫画・映画などは高尚な、オリジナル性やら思想性などよりまず第三者が楽しめるかというのが重要ということが、実際空気みたいに思われていてあまり理解されていないような気がする。)
乱暴ながら、設定を全て書くのが設定集、書かないのが物語とした場合、アンダルシアの夏は物語であったが、(宮崎御大は「この漫画が分かるヤツは本物だ」などと言ったが)分かり難いのも確かであると思う。
一つのエピソードを1つ2つのセリフと絵で済ませてしまうのは、現実の断片としては正解であり、この場合深みがでるとも思うが、分かりやすいかどうかで言えば分かり難い。
しかしこの漫画が面白いのは、単純にレースシーンが面白いからだ。カッコイイからだ。そのプロ選手の男っぷりとレーサーのカッコ良さを引き出すために、レーサーの過去や背景を彩ったエピソードを盛り込み、背中で語る男、みたいになってるから面白いのだろう。「既に離れて久しい地元を走るため男は帰ってきた。交差する過去と現在、そして未来」みたいな。うう、カッチョええ。
(実際のレースでもそうであるように、コースが選手の地元であることがある、というところを膨らませたのではないかと思う。)
前振りが長くなったが、さて映画版はどうかというと、この分かり難い部分を一回更地にして、再構築して、分かりやすくしてある。ペペはこういうヤツだ、この物語の見所はここだ、といった点が非常に分かりやすい。観た人は、「アンダルシアの夏はこんな話だったんだ」と思うのではないかと思う。ペペの失恋、痩せた土地アンダルシア、遠くに行きたい、etc...。監督もどこかで述べていたが、アンダルシア出身のペペが、アンダルシアを走ることが重要なのだ。そこを強調してある。
しかしどこを付け足して分かりやすくしたかというと、それはほんのちょっとの事で、どちらかと言えば"ページ数を足した"くらいのことであると思う。(逆に、追加された"自転車レースにおける集団の強さ"といったエピソードは自転車レースには関係あるけど、ペペの物語としてはあまり関係がないようにも感じる。元々のエピソードである、ペペの逃げ勝ちというのは、故郷から出たいペペの心情に沿っているように思う。)
ページ数の付け足しというのは、もう少しだけ物語(設定)の説明をしてみた、という程度のことなので、そのちょっとの差が、これほど違うことになるとことが一番面白かった。
こう書くと、映画版は語りすぎ、野暮、という印象を僕が持っているように思われるかもしれないが、映画版がなければ僕はここまでアンダルシアの夏が面白いと気づかなかったのも、確かだろう。
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